知足感謝と幸福の真髄(下):努力と満足の間で、手放すことを学ぶ

知足感謝と幸福の真髄(下):努力と満足の間で、手放すことを学ぶ
私たちは努力することを教わりましたが、立ち止まる方法についてはほとんど学んでいません。それは私たちが手放すことを拒んでいるわけではなく、手放すことも能力の一つだと教える人がいなかったからです。

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では、私たちがその地に達したとき、幸福は自然に訪れるのでしょうか?その答えは予想以上に複雑でした。

ある期間、私は全力で生きている気がしていました。すべての事に全力投球し、表現し、リラックスさえも必死に計画しました。一度でも油断すると、何かに取り残される気がしました。努力することが本能となり、努力しないことで逆に不安を感じるようになりました。

その期間、私は非常に重要なプロジェクトを完了させました。それは長らく成し遂げたかったことでした。他人は喜んでくれましたが、私はただ一息つくように感じました。不幸ではないけれど、空虚でした。マラソンランナーがゴールに到達したものの、次にどこへ向かえばよいのかわからない気持ちでした。

私たちの文化では、努力を美徳として捉え、価値の証明にしています。しかし、誰もこうは教えませんでした:「努力することも、立ち止まることもできる」と。欲望も抱いて構いませんが、「現状のままでも十分良い」と言えるのです。

心理学には「認知的不協和理論」(cognitive dissonance theory)があります。人々は内部の信念と現実との不一致に直面すると、それらの一方を調整しようとします。不一致とストレスを軽減するためです。この調整は「自己慰安」と間違われることがありますが、本当は成熟した能力です:外部が変えられない場合、内部の立ち位置を再調整し、平衡を再度見出すことです。

私は、何の証明も不要なことをし始めました。書棚の整理やシーツ替え、朝の土鍋での粥炊き。こんな時、私は焦りもせず、特に嬉しくもなく、ただ静かに存在を感じていました。

メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)は、人が意味を持つのは肉体を通じて世界を経験するからだと言います。幸福とは思考ではなく、身体が実際に生活に関与する感覚です。ベランダでの洗濯物干し、市場での大根選び、食器洗いのときの脱力。これらの瞬間は何も生み出しませんが、「生きている」という感覚を回復させてくれます。

努力は誤りではなく、方向性です。ただし、満足はリズムです。

私たちは走りもできますが、歩くことを学ばなければならないのです。奮闘の末に訪れる幸福もありますが、日々丁寧に過ごすことが必要で、見せびらかすためのものではありません。

私は次第に信じるようになりました。幸福の尺度は位置にあるのではなく、ある瞬間に「もう十分に遠くまで来た。もう十分良い」と認めることができるかどうかです。それは放棄によるものではなく、残す価値がある何かを見出したからです。

私たちが学ぶべきは、放棄ではなく、適切に手放すことです。