
私たちはよく、かつて経験した大事な出来事や、熱烈に愛した人々、私たちの眠れない夜を過ごさせた瞬間が写真のように記憶のアルバムに永遠に保存されていると思い込んでいる。私たちは、それが重要であれば決して忘れることはないと信じ、すべての細部に執着し、一旦手を緩めるとその時が風の中に消えてしまうことを恐れている。しかし、この信念こそが、記憶についての最大の誤解なのである。
時間は最も残酷なふるいのようなもので、無意識のうちに多くの貴重な細部を濾してしまう。初恋の顔や、彼が笑ったときの目尻のシワは覚えていても、初めてのデートの時に彼が何を着ていたか、またその時の会話の内容は思い出せなかったりする。卒業式の賑やかな騒ぎや別れの涙は覚えていても、親友がその時何を囁いたか、またその日の太陽の温度は思い出せなかったりする。かつて鮮明だったこれらの情景も、いつの間にかぼやけてしまい、新しい記憶に覆われ、最終的には空っぽの枠組みだけが残ってしまう。私たちは必死にそれらを掴もうとするが、それは砂を掴むようなもので、結局指の間にはわずかな痕跡しか残らない。
しかし、忘却とはかつての裏切りではない。それはむしろ脳の生存メカニズムである。もし私たちがすべての痛み、すべての過ち、すべての恥ずかしさや後悔を永遠に覚えていなければならないとしたら、前進することができなくなるだろう。もし傷つけられた感覚を永遠に覚えていれば、再び信じることができなくなるし、失敗の味を永遠に覚えていれば、再び挑戦することができなくなるだろう。忘却によって私たちは痛みから離れることができ、過去の重荷を下ろすことができ、新しい経験のためのスペースを作り出す。これは一種の自己治癒であり、もう一度呼吸し、美しさを再び感じる能力であり、さらには再び愛する能力でもある。
私たちはまた、記憶の重さに押し潰されないように忘却が必要である。忘却は脳の「ゴミ清掃システム」のようなものであり、それは自動的に役に立たない、進むのを妨げる記憶を選び捨てる。それは過去の教訓を忘れろと言っているのではなく、過去の重さを下ろさせようとしているのだ。それにより私たちは経験を持ちながら進み続けることができ、重荷を背負って停滞することはない。
だからこそ、忘れることを恐れるよりも、忘れる前にこの瞬間の温度を感じ、覚えておくために努力するほうがいい。顔に射す日差しの暖かさ、隣にいる人の手から伝わる温度、そして今行っている会話、その瞬間のすべての感情と感覚を感じること。その日、振り返る時に気づくことだろう、あなたが持っているのはあらゆる鮮明な記憶ではなく、かつてリアルに存在した各瞬間なのだと。忘れられた細部が別の形で存在し、それらはあなたの性格に溶け込み、あなたの知恵となり、今のあなたを成しているのかもしれない。
私たちは皆時間を旅する者であり、記憶は私たちの荷物だ。いつの日か将来、持ち歩く荷物が軽くなっていることに気付くことだろう。あなたに苦痛を与えた出来事や人を忘れるが、いかに勇敢にその道を通ったかは覚えているだろう。絶望を感じさせた瞬間を忘れるが、最終的にどのように立ち直ったかは覚えているだろう。このことこそが忘却の意味なのである。それはあなたに失わせるのではなく、最も大切な部分を持たせて、未来へと進ませるためのものなのだ。